全国家庭文書伝道協会(ETC)1991
イラスト■タナカ ヒカル
「私を変えた愛」三浦綾子
わたしがキリスト信者になった時、友人たちは、「へえー、あの人がクリスチャンになったって?」と、おどろいたということである。
なぜ驚いたのか。
その第一の理由は、わたしが大のキリスト教ぎらいだったからである。わたしには、キリスト信者という者は、妙に堅苦しい人種に思われてならなかった。上品ぶっているようにも見えた。へんに優しげな種族とも言えた。それでいて、内心、信者でない者を上から見くだしているような、傲慢さがあるように思われた。
それに、日本人が何も外国の神を拝むことはないという気持ちもあって、とにかく、わたしはキリスト信者なる人たちに反感を持っていた。
友人たちが驚いた第二の理由は、わたしが、あまりにも自堕落な人間だったからである。
当時のわたしを、友人たちはヴァンプ(妖婦)だと言っていた。美しくもないのに、わたしには男の友だちが多かった。わたしは、生きることに何の喜びも持たず、いつ死んでもいいと思っている投げやりな、虚無的な人間だった。
およそわたしは、上品でもなければ、正直でもない。優しくなければ、真面目でもない。そのわたしがキリスト信者になったと聞いた時、友人たちが、
「あの人が!」
と、唖然としたのも無理はない。
このわたしが、どうしてキリストを信ずるようになったのか、話は少しさかのぼる。
昭和20年、敗戦を迎えた時、わたしは旭川のある小学校の教師をしていた。教師をして7年目、23歳だった。わたしは旧姓女学校卒業後、検定試験を受けて小学校教師になったのは、まだ17歳未満であった。
自分の口から言うのもおこがましいが、わたしは生徒に対しては熱心すぎるほど熱心な教師であった。それは、若い者が誰でも持っている熱情の故であったろう。教壇に倒れるならば本望だと、本気でわたしは思っていた。
そのわたしが、敗戦を迎えてのショックは大きかった。敗戦によって日本はアメリカ軍に占領された。占領軍の命令は絶対である。その指令により、わたしたちの使っていた教科書は、いたる所、自分たちの手で真っ黒にぬりつぶさなければならなかった。
わたしも、受け持ちの4年生に墨をすらせ、何頁をひらいて、何行から何行目までを消しなさいと、生徒たちに指示した。生徒たちは、言われるままに素直に自分の教科書を筆でぬりつぶす。その姿を見て、教師であるわたしの胸はおしつぶされる思いであった。昨日まで、教科書は手垢もつけないように、生徒たちに大事にさせてきた。その教科書を今、筆で墨をぬる作業をさせねばならない。彼らの姿を見ながら、わたしは胸にぽっかりと穴があく感じをどうすることもできなかった。
以来わたしは、何を生徒に教えるべきか、わからなくなった。今まで教えてきた日本の方針が正しいのか、アメリカの新方針が正しいのか、そのどちらもまちがっているのか、わからなくなったわたしは、教師をやめた。
そして、わたしは二人の男性と同時に結婚の口約束をするような女に堕落した。どちらか早く結納を持ってきたほうと、結婚しようと思っていた。一生の一大事である結婚にさえ、こんな投げやりな考え方を持っていたのである。やがてその一人が結納を持ってきた。ちょうどその日、わたしは貧血を起こして倒れ、間もなく肺結核を発病した。
こうして2年、療養生活にはいったわたしは、むなしさの果てに自殺をはかったこともあった。そのわたしにキリストを伝えてくれたのは、幼馴染の前川 正であった。彼もまた肺を病む医学生だった。
だが、いつまでたっても真剣に生きようとしないわたしの姿に、彼はある日、旭川の街を一望する丘の上で、わたしをいさめた。その彼に応じない ふてくされたわたしを見て、彼はいきなり、傍にあった小石で自分の足を打った。驚いてとめるわたしに、彼は言った。
「綾ちゃん、あなたが真剣に生きることを、ぼくは今まで神に祈ってきた。しかし、ぼくにはあなたを救うことはできない。その不甲斐ない自分を、ぼくは責めているんです。
彼の目に溢れる涙を見た時、わたしは全身を彼の愛がつらぬくのを感じた。それは、男が女を愛する愛ではなく、人格が人格を愛する愛であった。
以来、わたしの姿勢は変わった。だまされたと思って、彼の信ずるキリストを求めてみよう。わたしは、彼の背後にある何か輝く清いものを求めて生きはじめた。この世には信ずべき何ものもないとし、キリスト信者を侮蔑し、きらっていたわたしも、彼の真実な生き方に心打たれたのである。その後、幾多の曲折はあったが、わたしは遂に、病床で洗礼を受けた。忘れもしない昭和27年7月5日だった。
わたしがどのようにして、神の子キリストを信じたか。それはわたしの自伝「道ありき」や「光あるうちに」などに詳しくかいてあるが、わたしは自分の小説「塩狩峠」の一節を引用して、その一端を伝えたい。
小説「塩狩峠」は、明治42年2月28日、北海道塩狩峠における列車転覆の際、一命を投げ打って乗客の命を救った一人のキリスト信者の青年をモデルに書いたものである。その青年は国鉄職員で、当時旭川運輸事務所庶務主任の職にあった長野政雄という人である。
彼の死に感銘した人々は、同時に彼の信仰に打たれて、続々とキリスト教に入信した。彼は神と人とのために、いつでも死ねるように遺書を常持していたが、その血まみれの遺書の言葉と長野氏の写真が絵ハガキとなって、彼の死後多くの人に配布された。
次は、その彼が雪の札幌の街角で聞いた、一伝道師の説教で、この説教は彼に大きな影響を与えた。
「人間という者は、皆さん、一体どんなものでありますか。先ず人間とは、自分を誰よりもかわいいと思う者であります。しかし皆さん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。真に自分がかわいいとは、おのれの醜さを認めたくない者であります。例えば、つまみ食いはいやしいとされておりましても、自分がする分にはいやしいとは思わない。人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれの言う悪口は正義の然らしむるところだと思うのであります。俗に泥棒にも三分の理という諺があるではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申しひらくところがありましょう。しかし泥棒には泥棒の言い分があるのであります。
皆さん、しかし私は、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります。
イエス・キリストは何ひとつ悪いことをなさらなかった。生まれつきの盲目をなおし、足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とはどんなものか、皆さんおわかりですか。ほんとうの愛とは、自分の最も大事なものを、人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。命ではありませんか。このイエス・キリストは、大事なその命を我々に下さったのであります。彼は決して罪を犯さなかった。我々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くないと言う者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、いや善いことばかりをしたイエスはこの世のすべての罪を背負って、十字架にかかられたのであります。彼は、自分に罪はないと言って、逃げることはできた筈であります。しかし、彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が、悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。
しかも皆さん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、自分を十字架につけた者のために、かく祈り給うたのであります。
〈父よ(神よの意)、彼らを赦し給え。そのなす所を知らざればなり〉
皆さん。今、自分を刺し殺す者のために、人間は祈り得るものでしょうか。イエスは神の人格を所有する方であると、わたしは思うのであります。」
以上の伝道師の路傍説教を、小説の主人公は聞き、大いに心動かされ、やがて信仰にはいるのであるが、これは、言ってみればわたし自身の信仰告白である。わたしは前述したように、何のために生きているのかもわからず、虚無的な日々を送っていた。二人の男と結婚の約束をし、それをさほど悪いこととも思っていなかった。
だが、そんな生き方を、もし続けていたら、一体わたしの一生はどんな一生になったことだろう。こんないい加減な、その日暮らしの生活に、何の実りがあったろう。かけがえのない命をいたずらに亡してしまったにちがいない。この、わたし自身の心の汚さ、醜さのために、つまり罪のために、イエス・キリストが十字架にかかられたと知った時、わたしの生活は変わったのだ。
今まで、どんなに罪深い生活をしてきた人でも、自分勝手な人でも、手のつけられぬ人間と思われている人でも、自分自身に愛想つきた人でも、そのままでいい、罪深いままでいい。聖書にあるとおり、キリストは我々罪人を救うためにこの世に来られたのだ。ああ、私が悪かったおゆるしくださいと言う人を、神は喜んで迎えようとしておられるのだ。だまされたと思って、あなたもイエス・キリストの神を信じてください。全く別の人生があなたの行く手に待っていることをわたしは断言してはばからないのです。