人間にとって最も幸せなことは魂の親であり、造り主である神(創造主)との和解を得ることです。
そして神との和解を得るただ一つの道は、イエス・キリストを救い主として信じて、あなたの罪が赦されることです。
聖書が、神(創造主)のことばだと言える、3つの理由をご紹介しましょう。
1)歴史的証拠
旧約聖書と新約聖書は、合わせて66巻から成り立っています。これらの書物は、約40人の人々の手によって書かれました。ある人は羊飼い、ある人はイスラエルの王、ある人は、漁師など、様々な職業、身分、異なった背景の人たちでした。
創世記やヨブ記など、初期のものは紀元前1500年頃からと推定され、新約聖書の最後の書が書き終えられたのは、紀元90年頃でした。その期間は約1600年間に及びます。
にもかかわらず、聖書全体は調和と統一がとられており、矛盾や間違いはありません。
この事実は、ひとりの著者が聖書を書かせた証拠にほかなりません。聖書は生きておられる神(創造主)が、神の息吹によって、聖書記者たちをうごかして書かせた、神のことばなのです。
また、選民ユダヤ人が何千年にもわたって聖書を書き写し続けたため、聖書は純粋な状態で何千年も保存されたという事実や、多くの反対者たちの攻撃を受けてもなお撲滅させられることなく現代まで伝わっていることも、聖書が神のことばだと言える理由なのです。
2)聖書自体が示す証拠
聖書が示す証拠とは、神(創造主)が書かれた権威ある書物であると聖書自体が語っていることです。中でも最も注目すべき点は、イエス・キリストが「聖書が神の権威あることばだ」と主張しておられることです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。」(マタイ5:17) ……中略……「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就します。」(マタイ5:18)
ここでいう律法と預言者は旧約聖書のことを指しています。このことからイエス・キリストは、聖書は決して滅びることがない、それは神(創造主)のことばだからと主張しておられるのです。
さらに、聖書全体がその内容、主題、教えなどすべてにおいて調和しており、矛盾なく統一されていることは驚異というほかありません。
加えて預言者たちが語った預言は99.9%その通りなったのではなく、100%その通り実現しているのです。これから先の預言もことごとく驚くべき正確さで、その通り成就しているのです。
3)実証的証拠
これはあなた個人にかかわる大切な事柄です。もし聖書が神(創造主)のことばなら、書かれた通りになるのですから、自分自身で実験して実証することができるというものです。具体的に言いますと、聖書には次のような有名なことばがあります。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも自分のこどもがパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。」(マタイ7:7-9)
つまり実証的証拠とは、あなた自身がこの聖書のことばに基づいて、「聖書が神のことばかどうかがわかるように祈りという方法で神に求める」ということです。また、聖書のことばに従って「聖書が神のことばかどうか捜し求めること」なのです。さらに「聖書が神のことばかどうかわからないという妨げの扉をたたき続ける」ということです。自分自身に聖書のことばを当てはめ、そのように行動するなら、生きておられる神(創造主)ご自身が、疑う余地のない方法であなたに確証を与えて下さるのです。
但し、いたずら半分にこのことをしても答えはありません。あくまでも真摯な心、真面目な気持ちで神(創造主)に求めていただきたいのです。
神(創造主)が殺してはならないといわれるからです。
天地万物の創造者である神(主権者)が決められたことだからです。例えば、スポーツではオフサイドというルールがあります。これは理屈抜きで選手は守らなけらばなりません。ルールを守らなければ試合は成立しません。それと同じように人間の世界を創造された神がお定めになったルールだから人間は人間を殺してはならないのです。
一切必要ありません。熊本キリスト集会では一般の方から献金や寄付金などを集めることはございません。
※但し、催しやイベントの内容によっては実費の半額程度の参加費をいただくことがあります。
(出来るだけ参加者の負担にならないようにしております)
はい。キリスト集会には牧師も神父もおりません。しかし、これは「肩書、役職名がない」という意味です。いわゆる、牧会者の働きの一つ「群れを牧する、群れのお世話」している者がいます。「長老、責任者、牧会者…」など呼び方は様々で、呼び方を固定化しているわけではありません。
私たちの集会では1人の伝道者がいます。これは一般教会でいう「伝道師」という意味ではなく、責任者であり、専心的に伝道や牧会の働きを担っています。
また集会の中では私たちは互いにクリスチャン男性のことを「兄弟」、クリスチャン女性のことを「姉妹」と呼び合っています。これはイエス・キリストにあって上下関係はなく「神の家族」とされているという意味です。
日本聖書刊行会が2017年に発行された2017年度版または第4版聖書と呼ばれている聖書を使用しています。
一部個人的には第3版や口語訳を使っているものもおります。
但し、聖書研究のためにはあらゆる聖書を参考にしております。
浸礼です。全身を水に浸すという浸礼を行っています。
例えば、何を表しているのか意味がよく分からない作品があったとします。余程詳しい人でない限りいくら考えても分かりません。そんなときはこれを作った人に聞けばいいのです。人間も同じです。
あなたはご自身の存在の意味が分からない方だとお見受けしました。人間を創造された方、すなわち天と地を創造された神に聞けば、人間の存在意味が分かるのです。では、神に聞くとはどういうことでしょう。それは神のことばである聖書を読むということです。聖書を読めば人間は神の愛の対象として造られたことがわかります。そして存在の目的は「神の栄光」を表わすため、また「神に愛されるため」だとも書いてあります。
神は人を公平に取扱います。(ローマ2:11)「キリスト」という単語を聞いたことがなくても、被造世界 (自然、宇宙、人間など)を観察することを通して、神を知り従うことはできます。(ローマ1:19-20)与えられた知識の中でどのように生きたかを神は裁かれます。一方、聖書の神に関する知識は、私たちが思っている以上に大昔から世界中に広がっていたことも近年わかってきました。滅びゆく人間を一番気にかけ、愛しておられるのは私たちではなく神ご自身です。私たちの心に「公平さを願う思い」「あわれみの気持ち」を与えられた神は、私たちが思ってもみない方法で、すべての人々に救いのチャンスを与えてくださったはずです。
クリスチャンも完全に「理解」しているわけではありません。しかし、聖書全体で、神は「父なる神・子なる神・聖霊なる神」という三位でありながら唯一の存在であることが示されています。そこで神のご性質の一つとして三位一体を「信じて」います。
神は人間の理解をはるかに超えた方です。ある人は「人間の理性で納得するような形で存在しなければならない義務を神は負っていない」と表現しています。いずれにしても三位一体は、人にとっては神に関して「意味が解らない」最たる例と言えるでしょう。「過去・現在・未来」で成り立つ「時」や「時間・空間・物質」で成り立つ「世界」など、「三つの独立した面がありながら、一つであるこの世界」の事象を用いて説明を試みる人もいます。確かに参考にはなりますが完全な理解は不可能です。「聖書が語っているので受け入れ、信じている」というのが私たちの言える確実なことです。
確かに人間は多くの神々を産み出し、神に代わる思想・哲学を考え出しました。聖書はそのような人間の性質を「神の形に似せて造られた人間の特性」と語ります。本物の神がおられるからこそ偽物もたくさん出てきました。人間が感じる以上に、人間を遙かに超えた神がその存在を示されました。被造世界(自然、宇宙、人間など)の精密さや、聖書預言の実現などを通じて、神ご自身がヒントを与えられたので、私たちは客観的に調べることができます。(ローマ1:20、Ⅱペテロ1:20-21)
生まれてすぐ亡くなった赤ちゃんは天国に行けると言えるでしょう。アダム以来すべての人は罪人として生まれます。(ローマ3:23参照)一方で、アダムとエバが神の命令に従わない選択をしたことが罪となったように、神の裁きは「人の選択」が基準になります。(ローマ1:32参照)「選択するための知性や理性を発揮できない、または善悪の判断を基に行動していない」乳飲み子を神が一方的に罪人として裁くのは考えにくいです。ただし、生後どの程度の年齢までの子どもだったら死後天国に迎え入れられるのかを聖書は明記していません。
罪と裁きからの救いは、イエスを救い主と信じる「個人の信仰」のみで十分です。それ以外には全く必要ありません。しかし、神はクリスチャンの霊的成長を願っておられます。その鍵となるのが神の家族=教会です。(エペソ1:22-23)新約聖書の手紙(書簡)では、クリスチャンが教会という神の家族との関わりの中で生きて行くことを大切なこととし、多くのアドバイスがなされています。つまり、教会に集うことはあたなのためであり、同時に神の御心、神の願いです。
矛盾しません。超一流の科学者の中にも神の存在を認めている人たちが大勢います。そもそも科学ということばの定義があいまいなら答えは出せませんが、科学的な実験結果ということであれば、神の存在を科学的な実験で証明することは出来ません。神の存在は科学的というよりも論理的に考える必要があります。そして論理的に考えるなら神は存在するという結論になります。
神(創造主)が聖書を通して示された(啓示された)救いの方法が、イエス・キリストの十字架と復活だったからです。
宗教は救いの方法を人が自ら探し、作り出そうとします。しかし、神(創造主)は救いの方法を聖書を通して人間に啓示してくださったのです。その救い主がナザレのイエス・キリストであり、その方法が十字架と復活なのです。
神(創造主)との関係が回復し、神と一緒に永遠に生き続けることです。イエス・キリストを救い主と信じた人は、そのとき以来永遠のいのちが働きはじめています。一方、キリストを信じない人は、神(創造主)との関係が永遠に断絶したままです。
聖書のことば
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)
神(創造主)は人間を「神に似せて」(創世記1:26,27)「非常に良い」(創世記1:31)ものとして造られました。
同時に神は人間に「自由意志」(選択の自由)を与えられました。最初、人間には罪はありませんでした。後に人間は自らの意志で神に反逆し、罪を犯したのです。罪の責任は神にはありません。自由意志を濫用(間違って使用)した人間の側にあります。
※自由意志(選択の自由)には、反逆という罪と、罪に対する責任が伴います。
これはキリスト教の悲しい・恥ずべき歴史です。もともとはカトリックもプロテスタントもありませんでした。しかし、聖書の教えからズレていく教会を見て、自分たちこそ正統な(カトリック)教会であると主張したり、カトリックに反発(プロテスタント)して、自分たちこそ正統な教会であると主張する流れの中で、カトリックやプロテスタントが生まれてきました。
熊本キリスト集会は、ルターやカルバンの宗教改革に端を発するプロテスタント系の集会(教会)ですが、「聖書の教えに従っていきたい」ということを大切にしています。
神が造られた自然界に注目することによって理解できます。優れた製品には優れた開発者がいるように、自然界という極めて優れた作品に注目することによって極めて優れた創造者である、神を知ることができます。
聖書のことば
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)